シラス

 高齢化社会のまっただ中、年寄りのつとめはまず病気にならないこと。そういうこともあって、肥満は生活習慣病への引き金となるということで親の仇のような扱いを受けている。

 肥満を抑えるためには食べないこと。戦後の食糧難の時代に育ったわれわれにとって未だに食事を残すことに後ろめたさを感じてしまうけど、この考え方はとっくに時代遅れになってしまったようだ。健康を維持するために食べ残しをしても誰も不思議に思わない世の中になってしまった。

 しかし、同じ残すにしても、残すものには予め箸をつけぬようにするとか、ご飯を食べずおかずだけにするとか、それぞれに工夫や流儀があるようだ。友人とこの話をしていた時、ご飯にシラスをかけて食べていて、途中で食べ残した孫娘に向かってその弟君が「姉ちゃん、そんな残し方したらシラスは生まれてきた甲斐がないじゃないか」と言ったということで大笑いをした。この弟君の言い分はよく理解できる。食べている途中で残すことはよくあるが、それは魚の一部や肉の数切れだったりするわけで、魚や牛にしてみればその殆どは食べられたのだから、一応、食物としての役割を果たしたことになる。しかし、シラスの場合には、まるごと食べられたシラスとまるごと食べ残されたシラスに分かれてしまうわけで、ご飯と醤油にまみれて食べ残されたシラスには立つ瀬がないということになってしまう。

 私はかって静岡近くに住んでいたことがあり、ご当地名物の生シラスを食べる機会に恵まれていた。昨今は駿河湾直送の生シラスがどこでも手に入るようになったようだが、シラスは非常にまわりが早いため、当時はなかなか生で食べるチャンスがなかった。とれたてのシラスを水でよく洗い、ざるに盛って生姜醤油で食べるのだが、磯の香りを伴ったほろ苦さと旨みがほどよく混じっていて、大変、美味しかった。

 シラスはカルシウムをはじめミネラル分豊かな健康食品だ。現代でも、やはり、ご当地に行って、穏やかな海を眺めながら、冷えたビールと一緒に美味しくシラスを戴いて、そのうえ健康維持に必要なミネラル補給するのが一番だろう。それが本当の「食と健康」だし、やはり「生きててよかった」ということだろう。その時には、言うまでもなく一匹のシラスも残さずに食べるようにしたい。

どじょう

  先日、「どじょうの丸煮」で有名な居酒屋で先輩連も交えて一献かたむける機会がありました。諸先輩がみな、やたらお元気なのに驚かされましたが、その言によれば「どじょう世代」かどうかが元気の分かれ道なのだそうな。つまり、幼い時に、雨上がりの小川でどじょうを捕って食べて育ったかどうかの違いが大きいとのこと。わたしの幼少時代は終戦直後だったし、東京の近郊で育ったため近くのどぶ川にはどじょうはすでにおらず、その代わり、真っ赤なザリガニばかりがハサミを振り上げてウロウロしていました。アメリカ渡来のザリガニはいかにもまずそうだったし、根性も悪そうでした。

 しかし、わたしもどじょう捕りの経験がまったくないわけではありません。浜松の叔父の家を訪ねた時、夕立の後に小川に仕掛けた籠の中で踊っているどじょうを生け捕った記憶があります。その晩はどじょうの柳川鍋。当時のわたしにはどじょうよりも甘辛い玉子のほうがご馳走に思えたけれど。しかし、夕立の後の涼やかな空気につつまれたたそがれどき、遠くにヒグラシの鳴き声を聞きながら、急な流れの小川を覗き込んで跳ね回るぬるっとした感触のどじょうをつかんだ経験は、今でも色鮮やかにはっきりと思い出す事ができます。勿論、それを持ち帰って夕食のおかずにしたことも。

 どじょうは本草綱目に「身体を暖め、生気を増し、さらに強精あり」と書かれているほどの健康食品。ビタミンB2、鉄分、カルシウム、ビタミンDが豊富で、しかも、高タンパク質・低脂肪食であり、旬の夏にはナツバテ防止のまたとない逸品と言えます。 

 その晩の諸先輩の意見では、若いときのどじょうの食べ放題は、結局、今の血管の丈夫さにつながっているという結論に落ち着きました。ご意見を拝聴しながら、それはそうかもしれない。しかし、夕立が上がったあとに外に飛び出して、田んぼの脇の流れの急な小川に仕掛けた籠から生け捕りにしたどじょうを夕食のおかずにするという、分かりやすく、ダイナミックな体験そのものが健康づくりに一番役立ったのではなかろうかと、半分、羨ましく思いながら私は美味しい酒の盃を重ねました。